高森顕徹先生との出会い

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高森顕徹先生の 徹夜での座談会

富山県・有沢千代さん(仮名)

「家族に仏法を伝えないのは、仏教が本当に分かっていないか、親子の愛情が薄いからだと思います」
 有沢千代さん(富山県高岡市)は毅然として言い切った。
 2男5女、7人の子供を育て、現在、全員が親鸞学徒となっている。
 次男夫婦に伝える時には、遠く沖縄まで、出かけていった。

「この子らに真実伝えなければ、死んでも死に切れない、と思い詰めて行きました。
 朝夕の勤行や、チラシ配りなどで、沖縄のみなさんに、親鸞聖人の教えを伝えたいと走り回る姿に、何かを感じたのでしょう。
 孫たちが手伝ってくれるようになったのです。
『これにいいこと書いてありますよ』
と、道を歩く人にチラシを渡すようになり、自らもご法話に参詣するようになりました。
 一言も勧めないのに子供のほうから言ってきて、今では家族全員が親鸞学徒です」
 次男夫婦は、現在、沖縄の親鸞学徒の中心となって、光に向かっている。

「死線を越えて」の腕章され

 有沢喜一・千代夫妻が、高森顕徹先生に出会ったのは、敗戦直後までさかのぼる。
 高森顕徹先生18歳、獲信間もない頃だった。高森顕徹先生が伯父・千田法潤住職と、有沢さん宅を訪ねられたのが、最初である。
 当時、喜一氏は寺の門徒総代、民生委員をつとめるなど、村の顔役だった。高森先生のご法話には、村中に声をかけ、多くの人を集めた。
「ご説法に立たれた高森先生は、『死線を越えて』の腕章をされ、評判になっていました。ネタミ・ソネミから寺で法座もできなくなり、私達は自宅に先生を招き、法話会をするようになったのです」
 高森顕徹先生は、京都の龍谷大学に在学中のころで、夏休みや、冬休みを利用しての布教であった。
「ご法話が終わると、すぐに座談会、一唾もされず、夜通し続けて下さった。朝になると自転車で帰宅されました。叫ばれることは、後生の一大事、信心決定と、昔も今も変わりません」
と千代さんは語る。

故郷へ帰る気持ちで

 喜一氏は元軍人(将校)であり、厳格な人であった。
「勤行をしないと、食事がもらえなかった」
と子息は思い出を語る。
 千代さんも、振り返る。
「夫はいつも、高森先生のご法話案内に、自転車で走り回っていました。ある時、私が、高岡市内を戸別訪問していた時、『ああ、あの有沢さんですか』という人があって、夫が種まきしていたんだなあと、知らされました」
 喜一氏は、65歳で逝去。親鸞会草創期を歩んだ人である。

 千代さんは、子育て、村の世話と忙しい日々のなかから、自宅での御法話を続けた。
 参詣者が多くなり、家庭での開催が無理になる昭和40年代中頃まで、高森顕徹先生を招待してきた。
 いよいよ開催が難しくなったことをお伝えすると、こう言われた。
「有沢さんのところへは、故郷へ帰る気持ちで来ていましたが、時期がきましたね」
「温かい高森先生のお言葉が、よみがえってきます」(千代さん)
 以来、支部長を招待しての法話を毎月開催している。
 我が子に聞かせたい一心は変わらず、朝のめざめと、家族が起床した頃にも、毎朝2回の勤行を実践しているという。

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親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員