高森顕徹先生との出会い

浄土真宗親鸞会 会員のページ

「石川で爆発的に真実が拡大」

控室で高森顕徹先生と一対一

 高森顕徹先生は金沢市内のほかの寺も含め、月に、4、5回は石川県へ。
 年配の人ばかりで、若者は矢田部氏1人だったからか、ご説法を終えて控室に戻られる際にはいつも、手招きして呼ばれ、控え室で、夜のご法話までの約2時間、一対一でご教導くださった。
 初めて控室へ伺った時、
「『ケシ粒の中に、三千大千世界を入れて、広からず狭からず』、この意味が分かるかね」
との問い。返答に窮していると、
「実は、私も学生時代、夏休みの宿題に出されてね……」
と、大宇宙がなぜ、ケシ粒に収まるのか、お話しくださった。
高森顕徹先生が初めて、仏法の底知れぬ奥深さを知られたお言葉だったので、私にも話してくださったのだと思います。」と氏は振り返る。

 また、ある時は、
「絞首刑にされた東条英機と同じように、私たち1人1人が、死刑の宣告を受けているのだ。しかし、それに気づいていないのが、人間の実態なのだよ」
と教えられた。戦犯の裁判が行なわれたあとであった。
「廃立とは、どういうことですか」
とお尋ねしたこともある。高森先生にお会いする以前に、ある坊主が説教で、
「当流は廃立肝要なり」
という『御遺言鈔』のご文を出したが、何の説明もなかった。本屋で調べても分からず、ずっと気になっていた。
 高森顕徹先生は、
「"廃"は廃物の廃、捨てものです。"立"は、たてるということで、拾いもの。この世には、拾いものと捨てものがあるのです。信ずべきものを拾い、捨てるべきものを捨てる。廃立を実行しなければ、救われないのですよ」
と答えられた。
 三重廃立のお話を聞かせていただくたび、この時のことがハッキリと思い出される、と言う。
「今日では考えられぬ、尊いご縁を数々頂きました。」

寺から、一般の会場へ

 石川県の参詣者は、勝光寺で2、30人、ほかの寺では、10人ほどの時代が長く続いた。「浄土真宗が盛んだったために、かえって本願寺の迷った教えに毒され、なかなか正しい仏法が心に入らない人が多かったように思います。」と氏は語る。
 「どなたの話も同じだ」と思い込んでいる人や、ほかの布教使の話も熱心に聞き歩いているおばあさんたちもあった。
 それでも高森顕徹先生は、何年もこの石川で、叫び続けられた。
 昭和51年、1月1日付で矢田部氏は石川の支部長の任命を受け、活動が始まった。最初の任務は、正月7日の金沢市北部の寺でのご法話開催だった。
 引き継ぎを受けて、驚いた。
「寺に葬儀が入ったり、門徒から法事の申し込みがあると、そちらが優先されることになっています」
と聞いたからである。
"いつ中止になるか分からぬ場所に、高森先生をご招待するなどとんでもない。一挙に改革しなければ"
 これを契機に、市の中心部でご法話を開きたいと思った。
 しかし、交通の便の悪い時代、郊外にあるこの寺の参詣者が、中心部まで足を運ぶのは難しい。ひとまず寺から近い東金沢の公民館へ会場を移すことにした。

 高森顕徹先生への案内はもちろん、寺に誤り、皆さんにも変更を徹底して、ご法話の準備を進めた。
 寺での開催には、お仏壇の設置は要らないが、一般会場でとなると、そうはいかない。日が迫っていたので、壁に紫色の布を張って、親鸞会から奉持した正御本尊をお掛けし、親鸞会の会員さんの仏具をお借りしてのスタートだった。
 その後すぐに、支部の備品として、仏具はもとより、絨緞なども買いそろえ、この公民館に3回、高森先生を招待した。3回目には、参詣者でいっぱいとなる。
「もっと大きな会場でなければ駄目だ」
という声が上がり、金沢市中心部の観光会館で、開催することになった。

 準備のため、念入りに会合を開き、支部を挙げて案内に奔走した。2、3人のグループを幾つも作り、金沢市の地図を広げて、
「あなたたちはこの地区、私たちはここ」
と場所を分担し、1軒1軒、宣伝して歩いた。
 1人1人が、足の皮がむけるほど徹底して案内したから、ご法話当日、多くの参詣者を迎えた喜びは格別だった。それまでの公民館と比べ、格段に広かったので、最初は会場の3分の1ほどの参詣者だった。それでも、300人は超えていた。
「よかったー、よかったー」と口々に、喜び合った。このご法話で、支部幹部の心が一つになったのである。
 観光会館での初めてのご説法のあと、高森顕徹先生から、葉書も頂いた。


「合掌
  泣いている
  苦しいからではない
  悲しいからでもない
  こんな悪魔羅刹が
  恵まれすぎて勿体なくて
  嬉しくて

  みなさんの苦労が実を結びましたね。
  みなさんによろしくよろしくよろしくお伝え下さい」

「寺での高森先生ご法話が、中止になる可能性があると聞いた時には、本当にビックリしましたが、これも無上仏のお計らいだったのでしょう。一般会場に移した結果、転悪成善で、程なく市の中心で盛大にご法話を開けるようになったのです。」

 高森顕徹先生が寺や在家で開かれていた法話会が、これ以降、一般の大会場で開催されるようになる。やがて、東京・国際フォーラム、幕張メッセ、大阪城ホール、名古屋レインボーホールなど、数千人規模のホールでの御法話に発展していったのである。
 その先鞭をつけたのが、石川県、金沢での、矢田部氏たちの奮闘だったのである。
 それはまさしく、無上仏(阿弥陀仏)の大願業力に動かされての、真実開顕のドラマであった。

以上


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