「学生服の高森顕徹先生と歩み始めて五十余年」(1/2)
滋賀県米原市 水口トミエさん(仮名)
滋賀県の下之郷という所に、Yさんという方がおられました。
五十数年前、Yさんが京都の本願寺へ行かれた時、大勢の人が集まっている
中で、一人の学生さんがビール箱の上に乗られ、腕には「死線を越えて」と、
小指を切った血で書かれた腕章を着けて、一生懸命にお話しくださいました。
「親鸞聖人のみ教えは、現在ただいまお助けくだされる阿弥陀仏の本願である」
と高森顕徹先生は、ご自身の体験を、手に汗握ってお話しくだされていたとのこと
です。
Yさんが、今まで聞いたことがない素晴らしいお話でしたので、高森先生に、
「一度来ていただきたい」
とお願いされたのが、滋賀県への最初のご縁です。
信前信後の水際明らかに
そのころ、私は、この世にあて力になるものは一つもないと知り、どこかに真実の教えを説いておられる先生がおられないかと、寂しい心を持ちながら探しておりました。
今も忘れもしませんが、
「今度、多賀の敏満寺のお寺に、すごいお話をしてくだされる方が来られるから、お参りに行かないか」
と誘ってくれましたので、十人余りの同行とともに、お参りしました。
最初の日は、お昼からでした。
「先生は、どんな方だろうか」
と首を長くして待っておりますと、若い学生さんがズック靴を履いて、頭には角帽をかぶり、手にはカバンを提げて、おいでになりました。
「この先生、若いのに、お説教されるのかしら」
と思いながら、時間の来るのを待っていました。
一時半になったので、勤行が始まり、いよいよ説法になりました。
まず、讃題が始まりました。
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
と仰せられると、先生の全身から、何とも言い表すことのできない尊いものが、私の胸に伝わってきました。
二日間のお話は、「名号・信心・念仏」のお話でした。
親鸞聖人の体験された信前・信後の水際を、詳しくお話しくださいました。
高森顕徹先生の当時のご説法も、現在と少しも変わらぬ大慈悲心いっぱいのお声とあふれる熱意で、親鸞聖人のみ教えを叫ばれて、お疲れもいとわれず、わが身忘れてのご化導でありました。私たち一同は、ただ吸い込まれて聴き入っておりました。
時間を惜しまれた先生は、
「皆さん、用事のある人は自由にしてください」
と言われ、二時より六時までのぶっ通しのお話でした。
「この先生こそ、まことの善知識さまだ」
といっぺんに思いました。
二日間のご法座も終わり、同行一同は、とてもほかでは聞かせていただけないお話なので、毎月来てくださるようお願いすることにまとまり、その旨を先生にお伝えしました。
その時から、先生にお世話になり、ご苦労をおかけしております。
休まれる間もなく
私は、代々仏法を聞かせていただく家に生まれたので、神棚なんかありませんでした。
いろんな布教使の話を聞いとりました。だけど、十劫安心やら念仏正因やら、異安心だらけでね。自分の心に納得がいかんかった。念仏称えて感謝の心でいたら、死んだら極楽へ連れていってもらえるという説教ばかり。
自分の罪悪を見たら、ほんまにこれで極楽往けるんか、とやっぱり疑いの心が出てくる。『御文章』には、
「ツユチリほども疑いがあってはいかん」
と書いてありますやろ。それで、善知識を探していました。
それからは、高森先生のお話ばっかり、お参りさせてもらっています。今日に至るまで、五十年以上。
高森顕徹先生のお声は、そりゃもう、大きかったです。甲高い、貫くようなお声でした。外までビンビン聞こえるくらいでしたよ。
それまで、黒板と指示棒を使って説法する人は、あまりなかったと思います。
黒板に書いていただくと、よう分かる。
到着されて、一服するやらせんやらに、すぐ皆さんの前に出てこられて、仏法の話。皆さんの後生を心配してくださっていたのがよう分かります。
「後生をどう思っているか」と、いつも尋ねられました。
お昼もご飯を上がっておられるのに、みんなが行って質問したり。食べられる間もなく、先生は大変やったと思います。
失礼なことやったけども、先生も一生懸命、こっちも一生懸命で、礼儀も何もなかった。こちらもその気にさせられたんですわ。
夏は冷房もなく、汗をかかれて、申し訳なかった。八月の夏休みの時やったかいな。
その日にすぐに、みんなで先生のお座敷に行って、また来ていただきたいとお願いしましたんや。今度また、いつご縁があるか分かりませんやろ。
弥陀の願心と、先生の御心によって、今日まで生かされてきました。
