高森顕徹先生との出会い

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なぜ真剣にならぬのか(1/3)

「他人の後生ではあるまいに、何故に、解決のつくまで、求め切らないのだろうか。導く者が悪いのか。求める人がいないのか。
 噫…いかに宿善まかせとはいいながら……」

 富山県の吉川ゆりさん(仮名)の語る高森顕徹先生との思い出には、一貫して変わらぬ、やるせない慈悲があふれていた。

 吉川ゆりさん(仮名)は、昭和31年1月、夫・栄一さん(仮名)とともに仏縁を結び、翌年から18年間、高森顕徹先生を自宅に招待し、ご法話を開催した。



高森顕徹先生と吉川栄一さんの思い出

 主人(栄一さん)は、生前にこう言っていました。

「無上仏のご念力で、高森先生の元に引きずり出されたと思わずにおれません。
 私と妻は、どこかに正しい親鸞聖人のみ教えを説かれる方はないか、と探し求めていたのです。
 昭和31年、母が初めて福光町の寺で高森先生の説法をお聞きして帰るなり、

『親鸞聖人の生まれ変わりが現れた。信前信後の水際を説かれるまことの方だ』

と叫びましてね。それまで、先代は皆、この家に有名な布教使を招待して法話会を開いていたのですが、それきり、高森先生以外は招待しなくなりました。

 大体、話のレベルが違いすぎる。伏木の勝興寺(高岡市)の御満座にも行ったが、なぜあんなばかばかしい話を皆、まじめに聞いているのだろう、という心しか出てこなかった」

 主人は、戦前は、それほど仏法を聞く気はなかったんです。青年団の報恩講にたまに参るくらい。「念仏さえ称えておれば助かる」という簡単な教えと思っていたようです。

 日中戦争から帰ったあと、今度の戦争で南方のトラック島(西太平洋上)に行くことになっていました。昭和17年2月、新潟から出発、輸送船13隻、駆逐艦、護衛艦が船団組んで。

 それが、トラック島に着かない前に爆撃に遭って、たくさんの船が沈没した。主人も海に投げ出され、板切れに捕まって一晩中救助を待っていました。体力のない人から沈んでいったと言っていました。

 テニアン島(西太平洋上・サイパン島の隣)に上がったあとも、後何時間かで空襲があるとかで、たくさんの兵隊が拳銃で自殺したそうです。
 主人も、いよいよ最期か、となった時、一生懸命念仏申し上げようとしても、空念仏しか出ない。目の前が真っ暗で、体が硬くなって、相当、苦しかったようです。

 命永らえて帰国したあとは、「仏法聞くための命」と言うて、本当の救いを求めて、あちこちで聞法していました。自宅に布教使を招待したこともありました。

 そんな矢先、姑が高森顕徹先生を紹介してくれたんです。間もなく、「高森先生でなけにゃあかん」と言うようになりました。

 昭和32年に、高森顕徹先生を自宅に招待すると、家はたちまち参詣者でいっぱいになりました。ポスターもチラシもないので、村中、太鼓をたたいて回って知らせるのです。寺の法事などより、はるかに多い人が来られ、家中の戸を外しても入り切らない。増築しても追いつきませんでした。


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親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員