高森顕徹先生との出会い

浄土真宗親鸞会 会員のページ

月20日、1週間続く説法(1/3)

山際すえさん(故人・仮名)と湊みえさん(故人・仮名)は、親鸞会結成以前から、高森顕徹先生と歩みをともにしてきた。生前のお二人はつねに、親鸞会館の最前列で聞法に臨んでいた。

二人の語る思い出は、倒れられてもなお、私たちの後生の一大事の解決を念じられる高森顕徹先生の姿である。

山際家に嫁いだゆみさんは語る。

「義母(すえさん)が初めて高森先生にお会いしたのは昭和20年代、高森先生がまだ学生のころです。義母は40代でした。
近所に仏法熱心な同行が3人あって、その中心がうちのばあちゃん(すえさん)でした。

僧侶にマコトとニセがある

山際「お嫁に来て、2日目だったと思います。
家の前を、黒い衣着た僧侶が通りました。そしたら、ばあちゃんが、
『あの坊主、偽者やったよー』
と言うのです。

義母は、伏木(高岡市)の寺を一軒一軒、しらみつぶしに回ったのです。でも、どの坊さんも、
『信心は、そんな難しいもんでない』
と答えました。だから全部、偽者だったと言うことなのです。

僧侶にマコトとニセがあるのか。義母の探しているまことの人≠フ話が聞きたい、この義母から離れてはならんぞとその時、私は心に誓いました。

義母は、
『まことの人がおられる』
と聞けば、福井までも泊まりがけで行きました。でも、落胆して帰ってくるのが常だったのです」


「親鸞聖人の生まれ変わりがおられるぞ!」

山際「その後、義母は湯治に行った先で、福光(富山県西部の町)に若い布教使が説法に来ると聞き、朝一番のバスに乗って出掛けていきました。
『また、ちごうた人かもしれん。そしたら、帰らねばならん』
と思って、いちばん後ろに座ったそうです。

その時、布教に立たれた方が、高森顕徹先生でした。
『こんな若いボンチ(坊っちゃん)』
と思っていると、先生は、縦の線と横の線をかかれ、横の線の上に、安楽イスを幾つも描かれた。そして、
『ただ念仏称えてさえいればいいのだろう、と途中で座り込んでは駄目ですよ』
などと言われては、次から次と、安楽イスを壊されるではないですか。

真仮を説き切られる説法を半座聞いて、ビックリ。休憩時間に控室へ走った。そしたら、高森顕徹先生が待っていました。

ばあちゃんが思わず知らず、
『まことのお方やったがですねえ』
と申し上げると、高森先生はニッコリされたそうです。

ばあちゃんは、帰りのバス賃だけ取って、財布にあった残り全部、
『失礼やけど、ちり紙に包んで置いてきた』
と言うとりました。300円くらい。月給4000円ほどの時代のことです。
そして、帰ってくるなり、義母は農協から、有線放送を流したのです。

『親鸞聖人の生まれ変わりがおられるぞー。三千世界探しても、おられん方やぞー』
と。永年、探し求めていた善知識にお会いできたのですから。どれほどうれしかったことでしょうか……」


人生の苦しみが仏縁に

湊「私は、すえさんから、高森顕徹先生のことを教えてもらいました。毎日、つらいもんで、仏法聞かずにおれなかったころです。

昔は男の子が生まれなかったら、やかましかった。私が生まれた時、きょうだいは女ばかり3人もいたもんで、両親はがっかりして。生まれてしばらくは、私をかごに入れて隠したそうです。幾つまでか、外に出られませんでした……。

生家は、広い田んぼを持つ農家で、馬の商売もやっていました。昔は荷馬車や、畑仕事をさせる馬とか、馬の仕事はたくさんあった。男の人を2人、食事の用意などする女の人も2人、雇っていたから、私はほうっておかれて。家事など教えられずに育ったから、嫁いだあと、苦労したんです。

つらくて、寺に嫁いだ2番目の姉の元へ行っては、説教を聞いていました。そのうち、農家の仕事もできないので、近くの製紙会社へ勤めに出された。それでも、早朝5時から説教を聞いたり、社員旅行の先でも抜け出しては寺へ行きました。でも、娑婆の話ばかりで、本当の親鸞聖人の教えの話はありませんでした。親戚の、すえさんに、
『まことの信仰の方、おられたかね、おられたかね』
って、いつも尋ねていたんです。それで、高森顕徹先生にお会いできた時、すぐに教えてくれました。それからは、高森先生一筋に、お参りしとります。49の時でした」


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親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員