高森顕徹先生との出会い

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月20日、1週間続く説法(2/3)


障子戸を外し、土間に特注の床を置く

湊「それから、山際さんの家と、うちにも、高森顕徹先生を招待するようになりました。昭和31年ごろだったか、障子戸を外して会場にしたのです。」

山際「うちには、いつも2日間、泊まられました。金曜の晩に来られて、土日に法話があった。

大勢の参詣者で、床の間から、台所の横の廊下、階段、黒板の下にまで座って。押し入れも布団を全部出して、そこへ入って、皆さん、聞かれたのです。
うちは店屋(当時はタバコ屋)だから、土間が広い。それで、義母が親戚の大工さんにお願いして、大きい床を作ってもらいました。何十人座っても壊れんような、組立式の床を。

ご法話の日には、土間にその床を置き、座敷と同じ高さにして、少しでも多くの人が聞けるようにしたんです。

10数年、開催しましたが、最後のころは座り切れず、2月の寒い時期に、外で立って聞かれた人もありました。

うちは横幅が狭く、奥行きがある、箸箱みたいな造りになっています。

『いつも小さい家で申し訳ありません』
義母が言うと、高森先生は、

『こんな長い家が、説法しやすいんです』
と、いわれました。

宿泊者もたくさんあって、1階と2階の6つの部屋それぞれに、敷き布団を敷いて、その上にこたつを置いて、足を突っ込んで、ごろ寝してもらっていました」


念仏とは……

山際「湊さんの家の法座で、念仏について教えてくださいました。
大きな声で称える人がいたので、聞法の邪魔になると思ったのでしょう、休み時間に、
『ご説法の最中に、念仏称えないでください』
と言った人があったんです。

それを聞かれた高森顕徹先生は、
『念仏を称えるな≠ネどと言うものではありません。信仰が進んできたら、称えずにおれなくなってくるのです』
と、正してくださいました。こんなふうに、聞き誤りがあると、すぐさま教えてくださったのです」



一日も休んでおれない

山際「高森顕徹先生に会ってから、義母はどこへでも、高森先生に同行していました。初めは、交通手段は汽車でした。
当時、1ヵ月に20日くらいは、親鸞聖人の教えを説法されていたと思います。滋賀などでは、1週間も続けられて。

汽車で滋賀に向かわれる途中、窓から田んぼで働く人たちを見られて、
『私は聞かねばならないことを話しとるのに、あの人たちは、娑婆に働きに来たんだろうか。気の毒なことだ。それを思うと私は、一日とても、休んではおれない』
と、いわれたそうです」



拡声器を担いで

山際「しばらくして、ご法話会場へ、義母が薄茶色の皮のカバンに入った拡声器を、運んでいく係りになりました。

高森顕徹先生も大きなカバンを2つほど持っておられましたが、ただ重いから任せられたのではありません。うちの店が忙しいので、係ということにして、
『私が拡声器、持っていかなかったら、法座ができないから』
と、いう理由で参詣しやすいようにということでした。

高森先生は間もなく、キャビンという小豆色の車を購入されました。それからは、義母を乗せて、会場まで連れて行ってくださいました。

だから、拡声器を担ぐといっても、近くのバス停まで。そこで車に乗せていただいていましたから、実際に背負って歩くのは、ほんのわずかです。一人一人の仏縁を念じられ、配慮されたのです」



何万億回生まれ変わっても

山際「説法の最中、
『山際さん、私の葉書、何枚ほど来とるかね』
と、義母に尋ねられたことがありました。
ばあちゃん、数えていたんですね、すぐ
『450枚です』
とお答えすると、
『ふーん、450枚?1000枚ほど出したと、思うとった。そんな少なかった?』
と、いわれました。

その後も頂いたので、先生からの葉書は、500枚を超えています。ちょっとしたものを差し上げた時でも、高森顕徹先生はいつも、真実いっぱいのお葉書を下さいました」


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親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員