高森顕徹先生との出会い

浄土真宗親鸞会 会員のページ

自転車で並走、オートバイに2人乗り
布教活動の青春

 

50有余年・滋賀での大獅子吼

浄土真宗親鸞会滋賀会館の建つ米原町梅ヶ原の近辺には、親鸞会が結成される前から高森顕徹先生一人を慕い、聞法に情熱を傾けた人々が多くあった。

会館から車で5分、隣の彦根市に住む聞法歴50数年の南田滋子さんは、高森顕徹先生から初めて仏法を聞いたのが、自宅だったという。

米原の澤田喜一さん(仮名)は、高森先生より2歳若いだけの同年代。男同士のざっくばらんなご教導を語ってもらった。

亡き息子が導いてくれた

彦根市 南田 滋子さん

不思議なご縁で、高森顕徹先生の説法を聞かせていただきました。
昭和20年に、私は3人めの子を、この家のすぐ前の川で、死なせてしまったのです。上の2人は女の子でしたから、その子は長男でした。

敗戦からまもなく、その子の2歳の誕生日でした。
今よりずっと小さい川だったのですが、雨が降ると、大人でも流されるほどになりました。その日も、前の日から降った雨で、水かさは増していたのです。
大人物の下駄を履いて、その子は遊んでいたのですが、気がついたら姿が見えない。

「川にはまったんやないか」ということで捜すと、田んぼに水をやるせきの所に下駄があったので、「川や!」と分かったのです。

村の人総出で、捜してくださいました。琵琶湖まで流れていったら、どうにもなりません。雨のせいで川はどろどろ、見ただけでは分からんので、川に入って捜してくださいました。すると、少し下の、ゴミのたまっている杭の所で、捜してくれていた人の足に息子が引っかかったのです。

「川筋にはたくさんのうちがあるのに、私の子供だけ、何でこんなことに……」

と、泣いて泣いて泣きはらしました。周りの人は、私を、
「病院に入れんとあかん」
と言っていたくらいです。

主人は戦争で、沖縄に出征していました。長男を死なせてしまったという思いで、心の休まる時がありませんでした。

それからです、あの子が一体、どこに行ったのか知りたくて、偉い坊さんに聞かせてほしいと思ったのは。当時は、あっちこっちの寺に布教使さんが来て、説教がありました。でも、幾ら聞いても分かりません。

子供が死んでからもう、一年半たったころでした。梅ヶ原(米原町)の寺に聞きに行った時、私は耐えられんで、みんなが帰ったあと、坊さんに尋ねに行ったのです。女がつかつかと、控室の座敷にまで入るなんて、見た人はびっくりしはったやろなあ。

その場に居合わせたある人が、余程哀れに思われたのでしょう、
「私が京都に行って、偉い布教使さんを探してきましょう」
と言われたのです。

年に2、3回、本願寺へ行っている人でした。そのあとすぐ、京都へ行かれた時、高森顕徹先生がちょうど、本願寺の前で辻説法をしておられたそうです。

その人は、京都から帰ってこられるなり、
「お酒もたばこものまん若い先生と、約束してきたでー」
と言われました。

初めてのご縁が自宅

南田さんは自宅での法話で、高森顕徹先生に初めて会うことになる。高森顕徹先生が多賀町(滋賀県)などで、すでに説法されていたことは、知らなかった。

高森先生の控室は、床の間の裏にある8畳間2つで、お泊まりにもなられました。この家は最初から、だれがいつ来てもいいような造りになっていて、お客さん用のお手洗いもありました。

沖縄から帰ってきていた主人も、初めは、
「こんな田んぼの忙しい時に、だれも参らんわ」
と腹を立てておりました。

最初は2、30人。ところが、高森顕徹先生がご説法なされると、先生のお座敷に皆さんが伺って、
「次は、私の家へ来てください」
と申し上げるのです。高森先生は、一人一人と約束しておられました。

でも私は、
「高森先生は何で、亡くした私の子供のことを言ってくださらんのやろ」
と思っていたのです。「信心」のことばかり話されるので、申し訳ないことに、ふに落ちん気持ちでおりました。

そのうえ、亡くした子のあとにできた子供が、説法中に泣いて、どうしようもない。ほっておくわけにもいかんし、勝手口の近くへ行って、あやしておりました。

すると、お話が終わってから、高森先生が私のそばへ来られて、
「今日の話は分かりましたか」と、ひざを突き合わせて話してくだされたのです。忘れられません。
「しんから聞いとらん横着な嫁や」
と、お見通しでおられたに違いありません。

次のご縁は、農繁期が過ぎた6月だったという。南田さん宅に高森顕徹先生は、毎月のように来られるようになった。
朝・昼・夜と話され、さらに翌日の朝・昼までのご説法だった。

「信心決定」とはどんなことかも知りませんでしたが、1年も2年もたって、ようやく分かってきました。「子供のことではない。わが身の一大事なんだ」と。
それまでは、『御文章』も読んだことがありませんでしたが、読ませていただくようになって、高森先生のお話も、より分かってきました。
参詣者もだんだん増えて、8畳間を4つ合わせただけでは足りず、玄関の土間にも庭にも板張りをして、座ってもらったのです。

2、30人から、200人くらいの参詣者へ。
南田さん宅での法話は、昭和41年に親鸞会滋賀会館が建立されるまで、20年近く続いたのである。

深夜の見送り

高森顕徹先生は、説法のたびに、葉書を下さいました。初めは2円の葉書でしたが、それが5円になり、7円になりました。
葉書は大切に保管し、今でも時々取り出しては読ませていただいています。
私は息子を亡くしたあと、3人子供ができましたので、お産の準備で、近所の家でご説法をお願いしたこともあります。

ところが、どの家もトイレが一つしかなく、たくさんの人が列を作っているので、高森先生が私の家までトイレを借りに来られたこともありました。突然のことで、掃除もしておらず、恥ずかしかったー。

高森顕徹先生が途中で、病気で帰られたこともありました。
その時は、来られた時から、だいぶんお悪そうで、食事をお出ししても召し上がられません。一日めは立ってくださいましたが、次の日はとてもムリと言われて、汽車で米原駅から帰られました。

来られる時はよく、「何時に米原へ着きます」と、電話がかかってきました。米原駅から歩けば、30分はかかります。その時は、自転車で駅までお迎えに行きました。自分が乗って、もう1台、片手で転がしながら。高森先生と自転車で並んで、米原駅からうちまで来ました。

学生服のころは京都から来られましたが、富山から来られた時は、お帰りは夜中でした。夜行で帰られて、富山には朝、着かれるのです。

いつも、米原駅までお見送りをしました。お葉書に、
「深夜の見送り、ありがとう」と書いてくださった。
今から思えば、亡くした子供は、阿弥陀さまの使いでした。おかげで、高森顕徹先生とお会いできたのですから。

善き友がなければ独りで

米原町 澤田 喜一さん(仮名)

高森顕徹先生のお話を熱心に聞いていた両親の影響で、私も20ごろから、聴聞するようになりました。同じ梅ヶ原での家庭法話にも、よく行きましたよ。

近くでご法話を開いておられる方がたくさんありました。昭和26年ごろです。

親鸞会結成は昭和33年だから、それ以前のことである。

「10を3で割り切れるか」
と、高森先生から尋ねられたことがありました。
「割り切れません」
とお答えすると、
「10メートルのひもは、3つに切れる。信心は、頭の善しあしではない」
とおっしゃいました。

当時から私は、オートバイで参詣していました。125tの当時最大だったオートバイです。自転車もなかなか買えない時代に、一生懸命お金をためてね。好きでしたから。
高森先生もオートバイがお好きでした。私が高森先生をオートバイにお乗せすることになったのです。
高森先生が駅へ着かれるのを、時刻表で調べて、オートバイでお迎えに行きました。同じ滋賀県でも、いろいろな所でご説法があったので、木之本へも、虎姫、高月にも。

高森先生が運転されることもありました。その時は私が、後ろに乗って、先生の拡声器とカバンを抱えるのです。
高森顕徹先生は歌もお好きで、流行歌のカセットテープを、私と貸し借りしてくださることもありました。

控室へも、よく入れていただきました。高森先生に出されたお茶菓子なのに、私にも勧められ、一緒に頂きながら、お話しくださいました。

説法が終わると、夜中に寝台列車で、富山へ帰られます。午前1時に米原駅出発でしたが、田口さんとか南田さん、山根すがのさんたちが毎回、お見送りをされるのです。私も必ず、行きました。

駅のホームで列車を待っておられる間も、私は高森先生にぐっとお近づきして、お話しさせていただきました。列車が到着すると、停車している間に、私がカバンや拡声器などの大きなお荷物を持って、車内の網棚まで運びました。そこで握手して、
「元気でいなきゃアカンぞ」
とおっしゃったことを、よく覚えています。

初めのころは、20代の男といえば、私一人。それを高森先生も気遣ってくださったのか、
「友達がいなかったら、独りで求めなさい」
とよく、教えてくださいました。お帰りの列車の中で、メモ書きにしてくださったこともあります。

「たくさんの人が聞いていても、みんなワラ人形だと思ったらいい」
ともおっしゃいました。一対一のつもりで聞け、というご教導でした。

拡声器を毎回、準備

高森顕徹先生が当時、持って歩かれたのは、ダンボール箱2つ分もある拡声器と、教誡服や身の回りの物を入れておられたカバンでした。

拡声器は、厚さ1センチほどもある革のバッグに入っていました。それは重いの何の。支部長が今、使っておられるプロジェクターとは比べ物になりません。
オートバイで会場に着くとすぐ、拡声器の準備をしました。これが私の役目でした。

スピーカーは2つ。1つは演台の上に置き、一つは部屋の隅に置きました。演台の上のスピーカーには、ボリュームのつまみがあり、高森先生が説法中に調整されました。

コードを天井にはわせたことも、よくありました。昔の製品ですし、だれかが踏んづけたり、ねじれたりすると、壊れて音が出なくなりますからね。コンセントも随分、抜けやすかった。

「こりゃあ、電気の知識も身につけんといかんな」
と思ったものです。

どこの会場も超満員で、説法中に先生の歩かれる場所がとても狭く、先生の持っておられるマイクと、演台のスピーカーが近づきすぎて、ピーッというハウリングが起きるのです。

その時、高森先生はサッと、マイクの向きを変えられる。同時に、演台の上のスピーカーの向きを私が変えるんです。

ハウリングがよく起きる時は、先生が、
「スピーカーの位置を変えなさい」
と、私に目で合図されました。ところが、近くに座っているつもりでも、参詣者が多すぎて身動きとれず、演台までも行けないことがあって困りました。

泣きながら聞くもの

富山の高森顕徹先生の自宅へ、寄せていただいたこともあります。

道路から少し低い所にありました。ひっそりとして、質素なおうちでした。
「ちょっと来なさい」
と高森先生に言われて、玄関へ入ると、
「親元へ行ってほしい」
とおっしゃいました。お母さまが来られて、氷見市のご実家へ連れて行っていただきました。何度か、泊めていただいたこともあります。

30歳になる直前だったと思います。富山の福光、城端、福野などで聴聞して、そのまま高森先生と一緒に、電車で滋賀へ帰りました。今度は滋賀でのご説法が、10日間くらい。

その時だったと思います。高森先生が、
「仏法は、泣き泣き聞くもんや。笑っている者は、どうかなっとる。私が冗談言っている時でも、何を言おうとしているのか、奥を探って聞け」
とおっしゃったのです。

この時、笑顔の澤田さんが急に涙目になり、声を詰まらせた。

例えば、雑毒の善を話してくださる時に、ぼたもちを上げた相手が礼を忘れていると、
「昨日のぼたもち、不出来だったでしょう」
と、礼の催促をする話をされるでしょ。面白く言われますが、私の心の実相をおっしゃっているんですよ。

「みんなが笑っていても、自分だけは、奥歯をかみしめて聞け」
と言われました。

「ふんどし引き締めて聞け」
とも言われました。

親鸞会館に行くと、今は若い人がたくさんいる。素晴らしいことですが、どういう気持ちで聞いているんだろうか、と思っています。奥歯をかみしめて、聞かねばなりません。

昔も今も、高森顕徹先生の話は一緒ですよ。優しい先生であり、とても厳しい先生でもある。

法然上人は、経典を拝読されていた時に、無上仏のお慈悲に涙をこぼされたとお聞きします。高森先生も、やるせないお気持ちいっぱいで、ご説法なさっていると思います。
寝ている人もいるから、冗談も言われるけれど、聞いているつもりの自分の心も寝ているから、笑ってしまう。
「笑うために聞くのではない」と、いつも自戒しています。

高森顕徹先生からの指導は色あせず、澤田さんの心に脈々と生き続けている。

親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員