『顕正』の執筆、5日間で 本願寺の最高学者を論破(1/4)
「五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅さかりなり」 (正像末和讃)
祖師の教えに忠実な親鸞学徒には、疑謗の嵐がやってくる
親鸞聖人の仰せの通り、親鸞会への非難も、後を絶たない。
親鸞会が結成された昭和33年も、いわれなき中傷があった。
東本願寺最高の学者であった柏原祐義氏によるものである。
浄土真宗親鸞会が宗教法人として認可されたのは、昭和33年9月6日である。
弥陀の誓願不思議に感泣された高森顕徹先生が、
「カラスの鳴かぬ日はあっても、高森の叫ばぬ日は無い」
と連日、弥陀の本願を獅子吼し続けてくだされた結実であった。
ちょうどその前後、先生が布教に立っておられた富山県、滋賀県などの真宗寺院から、一斉に法話の断り状が舞い込んだ。
「大変お気の毒ですが、この度の布教ご中止願います。当組長事務所よりの命により、悪しからず、お願い申し上げます。まずは急報まで」
(富山県・○○寺)
文面から、本願寺の組織的な動きと分かる。
消印は、昭和33年9月1日から、10月24日にわたっている。
中には、招待したいけれども、立場上やむなく……と、苦しい胸中をつづった葉書もある。
「謹啓
お元気で御巡教の由お欣び申し上げます。今年も大きな期待をもって御出教をお待ちして居りましたのに、貴師も既に御存知の様な事になって、心さびしく思っています。実に残念な事です。今暫く、ホトボリの醒めるまで御出演を見合わす事にしましょう。一、二年後には、是非共、拙寺に御出教下さいます様、その日の早く来らんことをお待ちします」
当時、真宗はすでに衰退の一途をたどっており、寺には閑古鳥が鳴いていた。
だが、高森顕徹先生が宗の淵源(体験)を尽くし、教の理致(教学)を極めて法筵を勤められる寺院は、どこも超満員。先生を招待できないことを遺憾に思う住職が多かったのも、当然だろう。
8項目の非難パンフ
各地の寺はなぜ、寺を貸すなと言いだしたのか。
原因は、間もなく判明した。滋賀の学徒、Yさん(故人)が、その原因となったパンフレットを入手したのだ。
文面には、
「信心を得させるようにいって殊更に個人教誨を強い聞法者の機を責めて精神を錯乱せしめ、聞法者が感情の興奮によって慟哭念仏することを獲信した証拠であると認定する」
など、8項目の非難(下記参照)が羅列されていた。
末尾には、「文は講師、柏原祐義師」とあり、柏原氏の責任において書かれたことは明白だった。
講師≠ニは、東本願寺の最高位の学階をいう。西本願寺でいえば、勧学に相当する。
教学安心上の問題のすべての責任者、しかも、『真宗聖典』(法蔵館)を編纂するほどの大学者が、公然と非難してきたのである。
一読された高森先生は、
「Yさん、私がいつ、こんなことを言いましたかね」
と尋ねられた。
「こんなこと、聞いたこと、ありません。それどころか、私たちがいつも先生から、こんなことは誤りだから気をつけなさいよ、と注意されていることばかりを、先生が布教していると、非難しているじゃありませんか」
Yさんは、半ばあきれ顔で答えた。
パンフレットを読んだ別の学徒は、
「先生のご法座に20か、30人の参詣者なら、こんな中傷は、恐らく起きなかったでしょう。
どこへ行っても群参なので、布教使間のネタミ、ソネミと、特に先生がお若いのに、同行の腹底をえぐるような説法をされるので、信仰に動揺を起こし、反感を持った同行のザンゲンも加わって起きたものでしょう」
と感想を漏らした。どれだけ考えても、そのような理由しか、出てこなかったのだろう。
先生は早速、翌日のご法話で、柏原氏の非難がいかに事実無根の中傷に満ちたものか、一項目ずつ、明らかにされたのである。
長浜別院へ猛抗議
憤激した10名ほどの滋賀の親鸞会会員は、約10キロの道を自転車で走り、長浜別院へ向かった。非難パンフレットが、別院の中にある長浜教務所から出ていたからだ。
その一人、Tさんは、次のように証言する。
「5、6人の僧侶に、ものすごく抗議しました。
『私らそんなこと、先生から聞いたことない。保証人になります』
と言うて。
あの時はもう、ホントに、そでを引っ張って抗議しました。やんちゃやったというのもありますが(笑)、だけど、せずにいられなんだ。素晴らしい先生のご説法をやな、中止して回るとは、どういうことやねんと。
坊主は、私たちを振り払うようにしていました」
同じく抗議に行ったYさんは、そのあと、先生から葉書を頂いている。
「攻撃が激しくなればなる程
この身体微塵に砕いても
やりぬくぞと元気百倍して
猛進していますから
御安心下さい。
最後の一息まで突撃しましょう。
みなさんによろしくよろしく」
「非難攻撃の嵐の中、突き進まれた親鸞聖人のようだと思わずにおれませんでした」
と、Yさんは語る。
