高森顕徹先生との出会い

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『顕正』の執筆、5日間で 本願寺の最高学者を論破(2/4)

生死の問題は戯事でない

「このままでは我慢なりません。ぜひ反駁文を書いてください」
学徒たちは熱願したが、高森顕徹先生は初め、取り合われなかった。

ところが、11月、富山県黒部市の○○寺で昼と夜のご説法を終えられた深夜、床に入られた高森先生は、ふと思い立たれた。

「これは捨てておけん勝縁ではないか。反論を書こう」
だが、そんなつもりで黒部へ来たのではなかったので、何の準備もない。部屋にあったわら半紙に書き始められた。

○○寺では、5日連続で、朝、昼、晩と布教された。その間、夜の法話のあと、明け方近くまで、わずか四晩で一気に書き上げたのが、『顕正』という著書である。
筆を執った心中を、こう吐露されている。

「その昔、聖人は八方総攻撃の中にありながら
『ただ、仏恩の深きことを念じて人倫の哢言を恥じず』
と忍従せられたではないかと一度は黙殺して隠忍しようと思ったが、ただ悲しむべきことは、このような書面が世間に流布せられ、現に多くの道俗が雷同しているのに黙殺すれば、何も知らない人達は、

『高森は、こんなことを布教しているのか。異安心と言われるのは当然だ』

と思うだろうし、御縁の浅い同行は危惧動揺するであろう。それでは如来聖人に申し訳がない。破邪せずしては顕正は出来ない。この際、非難攻撃に答えると同時に私の真意を鮮明にすべき責任がある。生死の大問題は戯事ではない。人の顔色を窺って場面を糊塗すべきではないと自覚し、止むに止まれぬ心情より筆を染めたのが、この小冊子となった」    (『顕正』)

本願寺へ質問文書

昭和33年11月10日、親鸞会は、故・深松賢雄最高顧問を陣頭に、本願寺高岡教務所へ抗議に赴く。
12月15日には、『顕正』発刊となり、直ちに、富山と滋賀で有縁の人に配布された。

そして、翌34年1月、親鸞会は、『顕正』を添え、本願寺高岡教務所に質問状を送付した。

昭和34年1月20日
  高岡市前田町三一七ノ二
  宗教法人「親鸞会」代表
           深松 賢雄
大谷派(真宗)
  高岡教務所長殿
謹啓 時下大寒の砌益々御清栄の条賀し奉ります。(中略)
安心問題について、若しあれやこれやと迷うことになれば、それこそ一大事でございます。(中略)
  来る2月10日までに左記について御高見を御示し下さいますよう伏して御願い致します。
    記
一、「顕正」の内容について 真宗教義上誤れるところはないか。
二、「顕正」の内容について 宗意混乱の憂いがあるか、ないか。もしあればどの点か

文体は極めて丁寧だが、この2問が、本願寺の肺腑をえぐった。お聖教を縦横に引用されて、いわれなき非難を微塵に粉砕し、真実信心を浮き彫りになされた『顕正』の前に、柏原氏も本願寺も、ついぞ一言の反論もできなかった。

「心から真宗の発展を念じ生命がけに猛進している者を、あぐらをかいた連中が、教権をカサにむやみやたらに非難攻撃している」(『顕正』)

という事実と、

「信楽開発の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することは出来ない」(同)

ことが、ここに証明されたといえよう。

これは、高森顕徹先生29歳の時。東本願寺最高の学者を、一撃で打ち破られた経緯である。

この論争を境に、高森顕徹先生のご法話は、寺院から在家中心となり、一層の飛躍を遂げていったのである。



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親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員