高森顕徹先生との出会い

浄土真宗親鸞会 会員のページ

兄のように慕った高森顕徹先生

親鸞会発足当時から、尽力された、Kさんと、長男のHさんに当時のエピソードを語ってもらった。

Hさん(岐阜県)

「病弱だった母が、長生きできたのも、本願力に生かされたおかげです」。

1万人収容の正本堂の計画は、50年前からあったと言うが……

富山県砺波市生まれの母は、医者の娘です。結婚して渡った満州で、敗戦を迎えました。父が他界し、母は私たち子供を連れ、家財全部を置いて、日本へ引き揚げてきました。

高岡に家と地所が幾らか残してありましたが、敗戦後の激変で土地は小作に取られ、幼い私たちを抱えての苦労が始まりました。

お嬢さん育ちだった母が突然、この世の地獄に突き落とされたのです。
「幸せになれる教えがどこかにないか」
と寺や、生長の家にまで行ったのですが、満足できるはずもありません。

生活のため母は、高岡に貸本屋を開きました。そこへ来られたのが、親鸞会の会員の方でした。仏法の本をたびたび借りていかれるので、母は、
「お若いのに珍しい。どんなことが書いてあるの」
と尋ねました。そこでその親鸞会の方が母に、親鸞聖人の教えを話されたのが始まりです。

その方は、銭湯に行った帰りに、立ち寄っていかれるようになりました。お客の少ない時間帯でしたので、夜7時から10時ごろまで、毎晩のように話し込んでおられました。

昭和22年、Kさんは初めて、高森顕徹先生の法話へ参詣する。

夜の法話のあとの座談会に、参詣者が2、30人、残っていたそうです。しかし、夜が更けるとともに減って10人になり、朝の4時、5時になると、残った人もほとんど寝てしまいました。が、母だけは、
「聞かせてください」
と休みませんでした。

夜が白々と明けてきても、聞き続けたあと、母は一番列車で、しょんぼり帰ってきました。
母はその時、集まっていた人は皆、阿弥陀仏に救われていると思い込んでいたそうです。「だから、安心して帰れるのだ」と思っていたそうです。

母はとても病弱で、医者から、

「50まで生きられない」
と言われていました。その年齢に迫っていたので、なおさら真剣に聞かずにいられなかったのだと思います。

帰宅後も、後生が苦になって、何も手につかない様子でした。
その後、間もなく母は、弥陀の誓願に救い摂られたのです。
仏壇の前へ行き、
「阿弥陀さま、ありがとうございました。ありがとうございました」
と泣いて喜ぶ姿が、今もまぶたに焼きついています。

地獄を証明できるか

救われたうれしさに、母は毎月、高森顕徹先生をわが家へ招待するようになりました。当時、先生は大学生、私は小学4年生。9つ違いの先生を私は、兄のように慕っていました。ご法話の日、早く来られた先生は、トランプや五目並べの遊び相手にもなってくださいました。

最初のご法話の時、私はぶしつけにも、
「地獄は本当にあるんですか。あるのなら、証明してください」
と質問しました。

すると先生は、
「アメリカが見えるかな?」と言われます。
「見えません」
とお答えすると、

「では、2階の窓からなら、見えるかな?」。
「アメリカなんて見えるはずないです」
「じゃあ、アメリカはないのかね?」
「あります」

答えを聞かれた先生は、
「地獄や極楽も、目には見えなくてもあるんだよ」
と教えてくださいました。
「そういえば、そうやなあ」と、納得せずにおれませんでした。

高森顕徹先生は、どんな質問にも、反論の余地のない答えを下さいました。しかも、即座に、です。どうすれば分かってもらえるか、常に研究なさっているのだなあと、子供心に思ったものです。

ご法話当日は、自宅の4部屋を続けた広間も、参詣者でいっぱいでした。5、60人はあったと思います。
  夜のご法話だけでおしまい、という日はありません。すぐ座談会が始まって、夜11時、12時と続きます。小学生の私は隣の部屋にいたのですが、中途で帰ろうとする人に、
「今晩死んだら、どうするんだ」
と、高森先生のおっしゃる声が聞こえてきました。座談会が終わるのはいつも、深夜2時か、3時でした。

 

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親鸞会と高森顕徹先生|昭和黎明期の記録 @2006- 親鸞会 会員